幼少時代

 林家ぼたんこと近田登司枝(ちかだとしえ)は、昭和五十五年(西暦1980年)一月十八日金曜日、静岡県浜松市に近田家の次女として生まれました。当時父の休みが金曜日であったため、便宜上金曜日に出産されました。休日に合わせた割に、生まれた子供が女子だったことを知った父は即座に帰宅したことは、後々何かにつけ責められることになります。このことは、宿曜日占いなどを読むたびに、自然に生まれていたらどんな運命だっただろうか、と思ったりもします。しかし三碧木星、山羊座、金曜生まれ、A型の特性はおおむね当たっていると自認しています。余談ですが、誕生日が同じなのは、小椋佳、おすぎ、ピーコ、ビートたけし、笑福亭鶴光、ケビンコスナー、片桐はいり、宮沢和史、荒川良々(敬称略)などです。


父は製麺職人、母は果物店販売員、現在はスーパーで総菜を調理販売しています。父は勤続四十五年、母も三十年で今も現役で働いています。二人とも気がつけば働いているという印象でした。朝早く出勤する父、パートの後に家事をする母「働く」「お金を稼ぐ」という大変さ、ありがたさ、勤勉さなど肌で感じることができ、感謝しています。典型的な共働きの家族ですが、私と姉が祖母と慕っていた、近所に住まう母の叔母と叔父が色々と面倒をみてくれていたため、寂しいということはありませんでした。また私と姉の学校が休みの時は伯母が従姉とともにあちこちに連れて行ってくれました。


四歳の時、浜松市立白脇幼稚園に入園しました。私の最も古い記憶は、幼稚園の運動会で運動場中央にある山からミッキーマウスマーチを踊りながら降りる際、私のタイミングが悪く、後ろの子に付き落とされたことです。成長しても、ダンスや踊りへの苦手意識が高いのはこの影響もあるのでは、と思いますし、ミッキーマウスマーチを聴くたびにこのエピソードを思い出します。また、初めて覚えた歌謡曲は「セーラー服を脱がさないで」だったと思いますが、幼稚園児が歌う歌ではないことに気がつくのはずっと後になってからでした。当時のテレビ番組では、夕焼けニャンニャン、ぱおぱおチャンネルの記憶がうっすらあるのですが、大竹まことさんが井森美幸さんを馬乗りになって殴った日の印象が強すぎて、今でも大竹さんのラジオを聴く時、緊張します。アニメでは、ハウスが提供していた名作劇場「小公女セーラ」に出て来るミンチン先生に怯えた記憶があります。最も古いお友達は谷下沢(やげさわ)牧子ちゃんという、美少女でした。最近までモデルをしていていました。私は、彼女がかわいいのに、自分でそう思っていなかったことがとても好きでした。



小学時代

 小学校は同じく市立砂丘(すなおか)小学校に通いました。初めての給食で椅子に立て膝をついて食べ、注意を受けた、と後になって母から聞きました。建具職人の祖父は立て膝をついて食事をするので、その習慣が出てしまったのでしょう。祖父の影響は強く「しゃらくせえ」「結構毛だらけ」「〜けすかる」などの方言、職人言葉を低学年のうちまで駆使していたようです。教育上はどうかと思いますが、江戸っ子の言葉に通じるものもあり、現在の職業には役立っていると思います。祖父にはその時々に趣味があり、私と姉が生まれたころはカメラ、その後プラモデル、ジグソーパズル、テレビ(レーザーディスク、BS、CS)自分の趣味にお金を使う時は決まって私たち姉妹にもプレゼントをくれたので、欲しい物はたいてい祖父に買ってもらい、町内でも比較的リッチな子供だったと思います。祖父は退職金を全部お酒に使ってしまったり、家を勘当されたりと、破天荒な人間だったようですが、私達には優しい人でした。優しい人でしたが、変わった人だったのでしょう、ジグソーパズルに凝った時などは、三千ピースというかなりの大きさのブロンド女性のヌードのパズルを部屋に飾っていました(もちろん普通のパズルもありましたが)。これらのことから分かるように良くも悪くも性的なメディアに対する認識が一般女子と少しずつずれ始めていました。


小学校での成績は良かったです。しかし、体育が非常に苦手でした。持久力がなかったせいで、マラソン大会では私の後ろに太った子と病気の子しかおらず「まじめに走れ」と怒られました。体を動かすのがとにかく嫌いで、できれば、本を読んでいるか、絵を描いているかしていたかったです。その私が、現在ジョギングと草野球を始めるとは夢にも思いませんでした。また、その体育の成績のせいで六年生を対象とした「市長賞」というひとクラス、男女ひとりずつ選ばれる優秀児童に選ばれなかったことは、私の人生で非常に重要な意味を持ちました。初めての挫折でした。成績も良く、いじめにも遭わず、学級委員だとか、児童会だとか、音楽会の指揮だとか目立つポジションにもいましたし、それまでだいたいうまくいっていた(たった)十二年でしたから。別の女の子がその賞をもらいに公欠した日に号泣したのをよく覚えています。



浜松時代

 浜松出身というと「ゴールデンウイークは帰るの?」とよく訊かれます。五月三日から五日までの三日間、浜松まつりという、初孫の誕生を祝う祭りがあり、老いも若きも、市民のもっぱらの楽しみです。市内の各町ごとにお子さんの名前の書かれた、畳数枚分の大凧を荒縄で上げ、他町の凧と糸(縄)を切り合うという祭りです。夜は初孫の生まれた各家々を回り練り歩きます。この時、ホストの家はお酒や食べ物、子供連にはお菓子を振る舞うのが習わしです。このためゴールデンウイークのある五月だけ缶ビールの売り上げが日本一になるという特徴があります。我が家はこの祭り会場から非常に近くに位置し、糸の切れた凧が屋根に落ちてくる、ということがしばしばあります。その際、地下足袋を脱いだ若い衆がどかどか上がり込んで来たこともありました(この祭りの正装は、町別の半纏、前掛け、股引、ダボシャツ、地下足袋)。この時期の浜松は祭一色になっています。神事と関係のない祭りということも関係あるのかわかりませんが、実に陽気で分かり易い祭りだと思います。この祭りが浜松市民の市民性を表しているかもしれません。


浜松まつりに象徴される市民性と工場に出稼ぎに来るブラジル人の気質はどこか通じる所があるのか、ブラジル人で浜松に永住する人も多いです。彼らはサッカーとバーベキューが好きな陽気な人々です(休日に団地のベランダでバーベキューをし、火事と間違われたりも)。少しルーズで、工場を休み、指摘されると「毎日こなくちゃいけないんですか?」と返答したり、ゴミの出し方を「駄目じゃん!」と注意され「駄目け?」と遠州訛りで返答するほど、町に定着していました。町のお知らせや病院の注意書きなどは、日本語とポルトガル語の二カ国語で書かれています。つまり、浜松は日本のリトルブラジルなのです。しかし、この度の不況でブラジル人の多くが帰国し、道でサッカーをする子供も減り少し寂しくもあります。


私の住んでいた町は埋め立て地のため神社やお寺がなく、宗教的な行事や祭はありませんでした。そのせいか新興宗教の信者も多かった上、公営団地も乱立しており、母子家庭、工場に勤めるブラジル人家族も多かったです。しかし、子供の頃というのは日本全国そんなものだ、と思っていました。お金持ちというと農家のうちと決まっていました。上京し、本当のお金持ちに遭遇した時は「テレビの中の人みたいだ!」と思いました。早い話が経済的には微妙な町だったということです。ヤンキー文化も根強く、早婚で黒いエルグランドの窓にスモークを張って乗るのがステイタスで、普段着はスウェットにキティサン(キティちゃんのサンダル)、後ろ髪を伸ばされ茶髪にされる子供が常識、高校生の時はそれが嫌で嫌でたまらなく、とにかく町を出たい、そのためには大学に入らなくてはと、勉強に励んだことは結果的にはよかったと思います。しかし、社会人になり初めて、浜松はホンダ、スズキ、ヤマハの自動車やバイクなどの工業生産物、農産物、海産物に恵まれた土地だったのだと気がつきました。仕事でたくさんの土地へ出かけると、もっと厳しい状況の町もたくさんありました。離れてみなくては分からないことでした。今は地元が好きですし、誇らしく思います。大学進学が決まり、高校を中退してヤンママの知人が「大学?まだ勉強するの?勉強好きなんだねー!」という言葉も今となっては、愛らしくも思えます。



中学時代

 中学校は馬込川の河口にある市立江南中学校に通いました。海浜公園を通りゴミの焼却場と海の見える橋を渡り登校しますが、あまりに海に近いため、地震災害でも、避難地になっていないのが特徴です。運動部以外には書道、理科、美術、吹奏楽しかなかったため、自動的に美術部に(理科部は帰宅部的存在でヤンキーが多数所属、吹奏楽は体育会系)入部した私は川の絵を描くために堤防に座り、上流から流れて来た色々な物をよく眺めていました。人が流れついてくることも年に一回くらいあります(私が発見した訳ではないけれど)。普通ゴミで出せない猥雑なものもよく流れついていました。ダッチワイフが流れて来た時は本物の人かと思い皆で警察を呼びそうになったこともあります。こう書くとなんとなく薄暗いひなびた町のようですが、中学生というのは生きる力に溢れており、そんな場所でも皆たくましく元気に生きていたように思えます。私もそんなゴミを見ながらたくさんの夢を見ていました。もしかしたら、綺麗なものを見ながら夢は見られないのかもしれないと思います。


中学校では挫折の連続でした。「市長賞」を逃してから高校卒業までは暗黒時代といえます。塾に行かないため成績の低迷、男子にモテない。しかし、心のどこかで「私はこんなもんじゃない」という根拠のない自信を持ち続けてはいました。校則が異常に厳しかったことも特筆すべき点です。男子は丸刈り、女子は三つ編み、一つ縛り、二つ縛り。ポニーテールは禁止。靴下は白の三つ折り、ワンポイントも禁止。不要物検査という荷物チェックもありました。そんな中、教師の机にゴルフ雑誌「アルバ」があり、それを問いただしたら「教師が休憩中に読むのはよい」と言われ憤慨したこともありました。学校が荒れるという言葉がありますが、荒れ続けていたのか、授業が満足にできていませんでした。とりわけ英語の授業のSVOCに代表される、文法を学ばずに今日まで来てしまい、未だに英語に苦手意識が強くあります。


中学三年の進路相談では「この子は真面目しか取り柄がない」と言われた母が「そんなことありません!」と言ってくれ、嬉しかったことを覚えています。というのも、それまで両親から褒められた記憶があまりなかったからです。テストで良い点をとっても私だけ褒める訳にいかず、姉妹を平等に褒めたかったのでしょうが、それを不満に思っていました。しかしこの時、自分を肯定してくれたことが嬉しかったのです。(今は私のことも姉のことも底抜けに褒めちぎっていますが)



高校時代

 高校は静岡県立浜松工業高校情報技術科に入学しました。なぜ工業高校を選んだかというと、中学校や普通科高校にありがちな、テストの結果を張り出したり、順位を気にしながら生活することに嫌気を感じ、職業高校だったらば、その苦痛から解放されると思ったからです。また、中学校の校則の厳しさの反発で校則の緩い高校に進みたく、従兄と姉が通っていた学校に決めました。情報技術科を選んだのは、中学校の技術科で学んだプログラミングに興味を持ち、これからはコンピュータの時代だと予見したからです。八科十クラス一学年、四百人中女子は百人程度で、工業高校の割には女子生徒が多かったと思います。それでも全体的に男子が多いですから、モテたのではないですか?と訊かれますが、ここでも相変わらず男子にはモテず、静かな高校生活を送りました。学校の特徴としては、一年次から実習、レポートの提出など、レヴェルの高い専門教育が受けられることと、進学だけを目的としていないため、部活動への注力が大きく。全国大会を目指すような強い部が多かったです。もちろん工業高校らしく、昔ながらのボンタン、短ラン、長ランなどが見受けられました。


この頃、ルーズソックスが大流行し、東京から半年遅れ位でそれが輸入され、女子学生は、こぞってルーズソックスを履き、ドコモのポケベルを持ち、バーバリーのマフラーを巻いていました。中学から続く暗黒時代の私は卑屈かつ、あまのじゃく精神でその三つ全てをスルーしました(スカートは膝丈、無印の靴下、黒髪で)。しかし、もう一つの流行にはすっかり乗っていました。「ボキャブラ天国」などから派生したお笑いブームです。現在程吉本色が強くなく関東のお笑いタレントに夢中になりました。爆笑問題、ネプチューン、海砂利水魚などをよくチェックしていました。



上京時代

 平成十年春、念願叶って東京の大学に合格しました(といっても、キャンパスは習志野市でしたが)。指定校推薦でしたので、小論文(作文に毛の生えたようなものでしたが!)と面接のみの試験でした(今でも一般入試をくぐり抜けて来た人には頭の下がる気持ちです)。そのため合格発表も早く、卒業式が終わったら、さっさと上京しました。ルーズソックスも履いてない、ポケベルも持ってない、バーバリーも巻いてない、モテない、地味な自分。「東京」は、地味な自分も受け入れてくれそうな気がしていました。夢に溢れていました。そして、ブラックホール並みの飲み込みで、東京と日本大学は私を受け入れてくれました。


大学一年の時は誰の追っかけという訳ではありませんが、渋谷シアターDへお笑いライブを観に行きました。その中でもラーメンズ、おおくまいちろうさんをよくチェックしていました(いわゆる記念写真をツーショットで撮ってもらったのもこの三人のみです)。そこでシアターD専属芸人「やめまいだー」の二人に会ったのです。この二人に出会えたことは、人生の大きなポイントになりました。彼らは現役大学生で日本大学経商法落語研究会に入ってお笑いを始めた人達だったのです。私は生産工学部に入学したのですが、入りたかった自分の学部の落研が廃部になっていたので、この二人の紹介で、経済学部、商学部、法学部合同の落研にお世話になることになりました。しかしこのことがかえって「やめまいだーのファンの子が入ってくる」という前評判になってしまい、なんとなく他の部員と距離ができてしまいました。私は他の部員と対等になりたくて、新入生のノルマ「酒の粕」という小咄も張り切って一週間で覚えたのですが、このやる気も、軽い気持ちで入部した他の部員と距離を作る原因になってしまいました。初めて寄席に行ったのは、落研の先輩窪田さんの引率で「金原亭馬生襲名披露興行」へ、初めての落語会は。この落研からプロになった、当時二ツ目だった柳家喬太郎師匠の「喬太郎伝説」でした。その時聴いた「純情日記〜中山編〜」には影響を受け、落研の発表会で自作の新作落語を披露するきっかけになりました。


一方、生産工学部の方では桜泉祭実行委員会という学園祭の実行委員会に入り、美術部経験を活かし、立て看板や巨大アーチ門のデザインなどをし、同級生や先輩からも「ねえさん」と呼ばれ、かなりノリノリな時期でした。初めて彼氏ができたのもこの頃でした(今でもこの桜泉祭実行委員の仲間とは、呑みに行ったり遊んだりしています)。


大学二、三年の頃、親友ミズエさんとの大喧嘩や、自分主体で始めた学内のゴミの分別化運動の頓挫、落研での境遇などから、自分の至らなさ、反省すべき点がだいぶ見えてきました。スタンドプレーが多かったです。目立ちたがりでした。自分の考えは絶対正しいと思って、それを押し付けていました。やっと気が付くことができました。相手の立場になって考えるなんて、当たり前だけど、なかなかできなかった、百パーセント分かることはできなくても、思い込みでも、そうやって思いを巡らすことが重要なんだと気が付きました。そんな風に思えた頃、自分の進路、このまま通信かSEで食べて行くのか、やりたいことをやって落語で食べて行くのか決断をしました。



前座時代

 前座になった頃のことを思い出すと、怒られてばかりだった。「お茶がまずい」「目つきが悪い」「女だからヤられてやめるんだろ」「大卒だからってバカにしてるだろ」「林家だからタレント志望なんだろ」とにかく絡まれた。隠れたかった。音もたてず、息を吸うのも嫌だった。前座修行3年、1915日分の何日って数えた。通分できるとうれしかった。手帳には、自分を励ます、奮い立たせる言葉を書いた。「あたしはこんなもんんじゃない、まだ行ける」強い気持ちで。泣き言はなかった。つらくても進むしかないし、他にやりたいことなんかなかった。その3年間は自尊心を潰された、人として全壊したと思った。


でもそれは、リセットだった。何もできないのに、人様からお金を頂戴する芸もないのに、自尊心だけが大きかった。1ミリずつ進むしかなかった。単純作業の奥深さ、着物を畳むとか、下足を預かるとか、お茶を入れるとか、それはスキルではなかった。相手があって、ただの「思いやり」だった。ラブだった。同じ職業の仲間、家族のようなものなんだと。先年、亡くなられた桂文朝師匠は大変に綺麗好きいわゆる潔癖症で、あまりおしゃべりではない方だった。前座となんか、話したくないのかと思った。着替え中、手渡しするズボンを畳んで、そっと座布団においたら「こういう時にコミュニケーションするんだから。仲間なんだし」(というようなニュアンスの)こんな下っ端の自分も仲間と認めてもらえたんだと。信頼を失うのは一瞬だけど、信頼を得るのは何年もかかる。鳴りものも覚えた。後輩も沢山入った。2年くらいして顔も名前も覚えてもらって、かわいがってもらえるようになった。ささいなことも一生懸命やった。理事も若手も区別なく接した。少しずつ笑顔でいられるようになった。そんな中、師匠が倒れた。


しばらく弟子の私にも知らされなかった。師匠は旅の仕事にでも行っているんだと、のん気に思っていた。一週間ほど経ち、いよいよおかしいと思った時、病気のことを聞いた。師匠の娘さんを中心に兄弟子姉弟子と交代で病院に詰めた。師匠は自分が病気であることを認めず、何度も何度も「タクシーを呼べ、うちに帰る」と言った。あの時、みんないっぱいいっぱいだった。寄席のあと、病院へ通った。たった数時間だけど、病室に詰めた。女子医大から原付で帰る道、鶴巻町あたりでいつも不安になった。これからどうなるんだろう。


不安な気持ちのまま、二ツ目昇進決定の報せを聞いた。前座最後の大仕事は正藏襲名披露興行だった。メディアでも取り上げられる盛大なイベントだった。一門の披露目であり、通常の披露目とは違う緊張の日々が続いた。その病院と披露興行の合間に紋付を用意し、手ぬぐいの手配をした。体重が7キロ落ちた。同期のたけ平、金翔さんにはずいぶん助けられた。彼らがいなかったら、と思うと恐ろしい位だ。

平成17年5月1日、二ツ目になった。入門から3年2ヶ月、楽屋入りから2年11ヶ月、異例の早さだった。これは私が優秀だからという訳ではまったくなく、単に後輩が増えすぎたための押し出しだった。だけど、だけど、だけど、嬉しかった。短くても濃い時間だった、誰にも文句は言われない自信もあった。

この日のために新調したナチュラルビューティーのスーツでおかみさんに挨拶し、師匠のいる病院へ行った。そして高座のある、浅草演芸ホールで黒紋付を着た。ゴールデンウイークの浅草は超満員だった。寄席の前に当時お世話になっていたTBSラジオと制作のテレコムサウンズさんからスタンドの花が届いていた。嬉しかった。ワンピースを着たかった、化粧もできる、髪も伸ばせる、嬉しかった。



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